安曇野を歩く
207・レッドパージ
 
 ケリー旋風の余波がおさまらないうちに、早くも九月に入ると、全国的な、レッドパージの波が襲ってきた。中国の人民解放軍が、国府軍に対して決定的な勝 利を占めるきざしが、日ましに色濃くなりつつある情勢に応ずる事態であった。日本を防共の前進基地たらしめようとする、アメリカの極東政策遂行が、焦眉 (しょうび)の急を要したからにほかならない。(中略)
 この年は、下山、三鷹、松川など、何とも不可思議な事件が相次いで起った。(中略)
 長野県の労組単産にも、レッドパージが及んできたことはいうまでもないが、最初に襲われたのは、教組であった。
(『安曇野』第五部 その十二)

労働運動に弾圧の嵐

 日本の戦後はGHQ(連合国軍総司令部)による徹底した民主化、非軍事化によって始まったのだが、そのGHQというかアメリカの占領政策が、世界の東西 冷戦時代を迎えて大きく変転する。
 中国、北朝鮮の共産主義化に対し、日本列島をアメリカ軍の前線基地にすると同時に、日本国内で民主化の結果激化した労働運動の弾圧に出たのだ。労働運動 の核は労働組合であり、共産主義である、それらを叩(たた)きつぶしてしまおう。
 昭和二十五(一九五〇)年六月、マッカーサーの示唆(しさ)を受けて、徳田球一ほか共産党中央委員二十四人と機関誌「アカハタ」幹部を公職追放したほ か、共産党から出馬、当選したばかりの高倉輝(テル)(長野県全県区)ら衆議院議員七人の資格も奪う。
 次はマスコミだった。七月、朝日、毎日、読売、日経、共同通信、時事通信、日本放送協会(NHK)などから共産党員や活動者三百三十六人を解雇させ、八 月には電力業界、秋には公官庁、全産業界に及ぶ「レッドパージ」を断行して、一万二千人を超える労働者を失職させた。
 GHQの支配下にあったとはいえ、すでに日本国憲法は公布され、自由と民主主義が保障された時代に起きたパージ(粛清)である。
 民主主義の根幹にかかわる大事件にもかかわらず、労働組合の対応は弱く、各地で起こされた解雇無効を訴えた裁判も原告勝訴とはならなかった。
 このレッドパージの前年、つまり占領政策が前期から後期に大転換するはざまで、不可解な事件が続発する。「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」の旧国鉄 の三大怪事件などである。
 下山事件は二十四年七月五日、国鉄の下山定則(しもやまさだのり)初代総裁が行方不明になり、翌六日、常磐(じょうばん)線綾瀬駅近く(東京都足立区) の線路上で、バラバラの礫(れき)死体で発見された。自殺か、他殺か。捜査当局、新聞報道、法医学会、それぞれを二分させる前例のない事態に陥り、真相は 謎に包まれたまま時効が成立、迷宮入りとなってしまった。
 当時、国鉄は組合に対し、九万五千人の首切りを通告しており、官公労組織の柱である国鉄労組はストライキなど実力行使の構えを見せていた。
 三鷹事件は七月十五日、中央線三鷹駅で無人電車が突然走り出し、駅改札口と階段をぶち抜いて民家に突入、六人の市民が死んだ事件であり、松川事件は八月 十七日、東北本線松川駅(福島県)付近で上野行き上り列車が脱線転覆、機関士一人と助士二人が死亡した。レールの継ぎ目板がはずされ、枕木のくぎが大量に 抜かれていた。
 松本清張のノンフィクション『日本の黒い霧』シリーズは、この下山事件、松川事件も取り上げ、清張は捜査報告書などを読み込んでGHQの謀略説を唱え た。
 五月に亡くなった豊科町(現安曇野市)出身の映画監督・熊井啓さんには、担当刑事の目を通して真相に迫った「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」がある。 (この作品は日本アカデミー賞優秀作品賞、監督賞などを受けた)
 信州のレッドパージは「ケリー旋風」と呼ばれる出来事に始まる。ケリー旋風と信濃教育会のかかわりを、臼井吉見は『安曇野』第五巻で力を込めて書いてい る。
 ケリー旋風とは、初の県教育委員の公選が行われた昭和二十四年の弾圧人事。教育部長のケリーは、県教組執行委員長を辞任させられた藤巻幸造が教育委員選 挙に立候補すると、マスコミまで総動員して妨害、落選させた。翌年春の教員人事異動では、異動者名簿を軍政部がチェックし、組合活動者らに退職を迫った。 (『長野県史 通史編』)
 県教組の弱体化を狙った弾圧だった。臼井は、信濃教育会が軍政部と協力して露骨におこなったものととらえ、戦中に「全国一多数の満蒙青少年義勇隊を送り 出した」信濃教育会の体質について「戦後も本質的に何の変りもなかった。(中略)戦前戦後を通じ、つねに国家権力への協力を合理化して怪(あや)しまな かった」と厳しく批判した。
 文と写真/赤羽康男