安曇野を歩く
 103エロシェンコと良
 愛蔵は、しかし、むりやり中村屋へつれてきた。そして、 ボースがさきごろまでかくれ住んでいたアトリエを与えた。食堂では、盲目の彼を、良は自分の隣の椅 子(いす)にかけさせて、食事の面倒をみてやった。文学好きな彼のために、良は小説や脚本を読んできかせ、彼からはロシア文学の話を聞くのだった。議論好 きの皮肉屋で、偏屈なエゴイストでもあったエロシェンコも、良の親切と好意には感謝し、マーモチカ(おかあさん)と呼んでなつくようになった。 
(『安曇 野』第三部 その九


盲目の露 詩人 食客に

 盲目のロシア詩人、ワシリー・エロシェンコが新宿中村屋に初めて顔を見せたのは、大正4(1915)年の9月である。中村屋がボースを匿(かくま)う3 カ月前に当たる。
 このときエロシェンコは、相馬良(黒光)のなじみの演劇青年、秋田雨雀(うじゃく)と、東京日日新聞記者の神近市子(かみちかいちこ)に伴われて現れ た。生活に窮しているので助けてもらえないか、という話であった。
 ドストエフスキーらロシア文学の原語読みに励む良は、ルパシカ(ロシア風のゆったりした上着)を身につけ、亜麻色の髪がカールしたこの吟遊詩人が気に 入った。
 エロシェンコは1890年に南ロシアに生まれ、四歳のときにかかった麻疹(はしか)がもとで視力を失った。エスペラント語をマスターし、ロンドンの盲人 師範学校に進んだものの、知人から日本のマッサージ師の話を聞いて、はるばる日本に来た。エスペラント協会を訪ね、雑司ケ谷の盲学校の特別研究生にしても らった、とのことだった。
 話のあとすぐ、エロシェンコが中村屋のアトリエに居着いたわけではない。ボースが現れ、4カ月いて、麻布の隠れ家に移ったのを機に、エロシェンコの様子 を雑司ケ谷の下宿にうかがいに行った愛蔵が見るに見かねて連れ帰ってから、「エロさん」は居候(いそうろう)となった。
 良は食事の際、エロシェンコを隣に座らせた。食べ終えると彼はロシア民話を語り、バラライカ(ロシアの弦楽器)を奏でた。良がオルガンに向かい、「エロ さん」がバイオリンを弾く写真が残されている。
 ところが、3カ月ほどした夏、彼は「外国へ行きます」と言い残して、神戸港から出港してしまう。
 “放浪詩人”が戻って来たのは、3年後の大正8年7月だった。この間、神近市子は葉山(現・神奈川県葉山町)で大杉栄を刺す「日蔭茶屋事件」を起こし て、刑に服していたし、良が一晩で三カ所も芝居見物に歩いて共に「不良ぶりを発揮した」松井須磨子は、縊死(いし)してしまっていた。
 市子が出獄する日、エロシェンコは雨雀と八王子まで迎えに行き、市子と手を取り合って無事を喜び合った。「エロさん」は明らかに市子に恋していたのだ が、市子は翌年、ある男性と結婚する。しかし、結婚後も「エロさん」は市子の新居を訪ね、「ロシアの民話を日本語で語ってごらん。私が筆記するから」と言 われて喜んだり、火花を散らすような議論をしている。
 エロシェンコが再び中村屋の食客(しょっかく)となって2年が過ぎた大正10年5月28日、1人の新聞記者が中村屋を訪れ、「お宅のロシア人に政府から 国外退去命令が出たが」と質問しているところへ、外出していた彼がおびえ顔で帰宅する。
 すでに外には数人の刑事が待機しており、エロシェンコは「今夜行きません」と愛蔵や良に必死に訴えた。その夜、彼はアトリエで寝るのを怖がり、良は震え る彼の冷え切った手を握ってやっていた。
 周りが静寂に包まれた11時ころ、「突如(とつじょ)門をあける音、荒々しい足音など喧々囂々(けんけんごうごう)、屋外にわかに騒然たるものがあり、 次の瞬間には大勢の人が屋内に突入しようとしている気配」がしたかと思うと、警官、刑事約20人が土足で踏み込んで来て、エロシェンコは取り押さえられ た。引きずられて行く彼はじたばた手足を動かし暴れた。警官たちは「オイチニ、オイチニ」と掛け声を発して裸足のエロシェンコを担ぎ上げ、淀橋署に連行し た。(黒光『黙移』)
 このあと「エロさん」は、二度と再び中村屋に戻ることはなく、突然の哀(かな)しい別れとなった。

文と写真/赤羽康男